1759(宝暦九)年刊弘法大師御詠歌集：十一丁表

十一丁表

　しつらん。必.かならず汲.くむことなかれと。衆生.しゆじやうをあはれみ
　めぐみたまふ御心ならん。しかるに此玉川は。高
　野山十二境.けいの一ツにて。玉川の秘水.ひすいと出たれば
　その子細.しさいあるべし。此山の峯.みねは八葉を表.へうし。御廟.ごめう
　の橋.はしの流.ながれは。八功徳池.はちくどくちと謂.いひつべし。かく尊.たふとき
　御山に。毒水.どくすいの有.あることは。曼陀羅.まんだらの中に。佛.ほとけも
　地獄.ぢこくも備.そなはりあるごとく。十界.しつかい輪圓.りんゑん具足.ぐそくの
　御しめしにや○一説に奥の院に毒龍すみしを大師
　　　　　　　　箒.はヽきにて大瀧へはきやり給ふ古傳有となん

必ず汲ことなかれ
この歌意も、いずれの伝承形にも問題なく当てはまる。ただし、弘法大師年譜冠注のみは、全く異なる解をしているという。

此ノ歌人とき誤しこと。さきヽヽも云ことなれと。こヽに其ノあらましをあけぬ。既に風雅集の詞よりして誤れり。山には砒石あるよしいへれと。今をもてこれを探るに。さる石のあるへきやうもなし。御歌の心は。玉川と云フ清潔なる玉に似かよふと云名をわするヽとも。此ノ水の清を見は汲つへし。まして玉てふ名をしりなは。なほさらくみてめて賞翫すへしと。秘教のたふときを詠し給ふ御歌なり

「砒石」云々は、風雅集ではなく、大和本草の所説を引いたものらしい。年譜冠注の筆者は、風雅集のみ、それも詞書を無視して歌のみに注目し、それなりに合理的な解を得ようとした結果、他と正反対の解釈をするに至ったのだろう。

高野山十二境
未考。
八葉
密教で単に八葉と言うときは、主として胎蔵中台八葉院の四仏四菩薩。高野山に関しては、内の八葉・外の八葉の十六峰と称して山上伽藍を取り巻く峰を金剛界曼陀羅・胎蔵曼陀羅の諸尊に配当する。聖地としての高野山を曼陀羅に見立てたもの。
八功徳池
八種の美質を持つ、極楽の池水。特に高野山との深い関連はなく、上の「八葉」の連想で言っているのだろう。
曼陀羅の中に～十界輪圓具足
胎蔵曼陀羅に現れる仏菩薩・仏弟子（声聞・縁覚）・外金剛部の諸天・星宿・鬼神類を、一切のレベルの存在を包括的に描いたものだとする解釈。高野山を曼陀羅と見立てることから、胎蔵曼陀羅と同様に、毒のような悪の姿も教示するのだとする。曼陀羅についての解釈は密教で一般的なものだが、それをここで持ち出したのは、聖地と毒水を共存させるための、蛙文の理屈に過ぎない。

奥の院に毒龍すみし
弘法大師全集の注に「神明鏡」からの引用として、

其後モ守敏怨念失サリシカハ。魔軍ヲ引率シテ高野ニ上リヌ。空海其難ヲ防キ一ツノ山ニ押籠置玉ヘリ。其山ヨリ流ルル小河ヲ多魔河ト云リ。尚ホ以テ怨念不レ止マ。常ニ鴇ト云鳥ニ變シ災ヲ成スト云リ

とするが、関連未考。

　この「忘れても」の歌は、空海作として伝承されている和歌の中でも、次の「法性の」と共に、最も有名なものだろうが、なにかと不明な点の多い歌でもある。

中世の真言宗諸派内で、口伝めいた形で伝承されていたものと想像できること。
出典として最も権威あるものと見なされがちな勅撰集＝風雅集に、文法的に不安定な形で掲載されていること。
詞書なしには、歌意が把握しにくいこと。
詞書によって歌意を理解しても、その歌意に現実的な裏付けが見出しにくいこと。

こうしたことから、様々な解釈が付会されることになった。おそらく、高野山における水に関する何らかの禁忌の口伝があり、それが空海の和歌という形で各流派に伝承されていたものだろう。その起源がいつにまで遡るのか、また禁忌口伝の原型がどのようなものであったかは、知る由もない。この点については、

日野西眞定『高野山民俗誌［奥の院編］』 1990.2 佼成出版社

で、「玉川」の所在と共に詳しく考証されている。

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