五衰殿石塔

佐井寺山田寺

伝承

五衰殿

「五衰殿塔」の名称の初出は、判明している限りでは、1701(元禄14)年の攝陽群談であるように思われる。ここでは単に「来由不詳」としており、名称のみが伝わっていたことがわかる。1798(寛政10)年の攝津名所圖會になると、これに「御讀經供養の塔なりとぞ」と、由緒らしきものが付け加わる。これより後の資料には、しばしばこれが引かれるが、上記以上の情報を付け加えるものはない。
Visualには、年代不詳の摂州嶋下郡佐井寺村山田寺境内之図に「ごすいでんの石たう」として、小さな覆屋根を伴っているかのごとき姿で表されている（右図）。立っているのは、御香水池の上方、墓地の山際で、これは現在の位置と変わっていない。
少なくとも、元禄から大正～昭和初期に至る二百年あまりの間、五衰殿石塔は、小さな「名所」ではあり続けたようだ。けれども、その説明としては、いつの時代からのものか不明な名称（それが本来の名称なのか、何か他の名前の訛伝なのかすらわからない）と、公家御読経云々の由緒（これも根拠不明）しかない。もちろん「五衰殿」と「御読経」とを結びつけるような伝承など、望むべくもない。
1932(昭和７)年の千里村誌あたりを最後に、五衰殿石塔は、あまり資料に登場しなくなる。寺が発行する由来書にも紹介されていない。吹田市の発行物や、郷土史家達の著書等でも触れられることは、まずない。通常、人があまり立ち入らない場所にあり、道からも見えにくい位置にあるので、その存在すら、ほとんど忘れられかけているのが現状だ。

五衰殿

単に「五衰」と言えば、いわゆる「天人の五衰」だが、「五衰殿」となると、一般に「熊野の本地」または「五衰殿」として知られる物語、あるいはその物語のヒロインの女御を指す。中世後期から近世にかけては、広く流布した物語であったろうし、他に「ごすいでん」やそれに類似する語彙・名称は知られていないから、五衰殿石塔の名称が、熊野の本地譚や五衰殿女御にちなむものとして受け取られていたことは確実と思われる。

「熊野の本地」あるいは「五衰殿」は、熊野権現の本生譚として、説教師や熊野比丘尼により口誦され、後には御伽草子として流布した（岩波の日本古典文学大系「御伽草子」等で読むことができる他、九州大学附属図書館の展示紹介の中に、美麗な奈良絵本の画像と共に、ストーリーの簡潔な要約が掲載されている）。
「熊野の本地」は、長い年月の間に広く民間に流布したため、異本の多いことで知られている。山中で斬首された五衰殿女御の遺体の乳房によって育った王子が、ラスト近くで母の首を所望した後、法力で母が生き返る系統の伝本もあれば、そうではなく熊野に飛来してから首を本尊として祀るという記述のものもある。岩波大系本などは後者だが、生き返りを含まない物語からは、五衰殿女御の供養塔だの首塚だのという発想が出てきても、おかしくはないように思える。もっとも、これは文献的な根拠のない想像に過ぎない。諸本を博捜したわけではないので、確実なことは言えないが（それに、現存する異本にすべて当たったところで、かつて流布した物語のすべてを知ったことにもならない）、岩波大系本を見る限りでは、五衰殿女御の供養塔のようなものは述べられていない。また、参詣曼陀羅等の中にも、五衰殿の塔と言うようなものは、見あたらないように思われる。

さて、熊野信仰の中で特に五衰殿女御と佐井寺とを結びつける要素はあるだろうか。遺物や伝承から、佐井寺における主要な信仰対象として挙げることができるのは、次の神仏である。

仏菩薩：十一面観音・薬師如来・地蔵菩薩
神(当時の祭神)：春日明神・牛頭天王・八幡神
神(「復古」祭神)：伊射奈岐尊

一方、熊野信仰における祭神・本地仏の関連はどうか。所伝によって多少の異同があるので、いくつかの出典を挙げる。

熊野フィールドミュージアムより

本宮	家津美御子大神	スサノオ	阿弥陀如来
速玉	熊野速玉大神	イザナギ	薬師如来
那智	夫須美神	イザナミ	観音菩薩

大系本「熊野の御本地のさうし」より

證誠殿	阿彌陀如來	大王
兩所權現	大慈大悲の觀世音	御衰殿のせんかう女御
那智の權現	藥師如來	地けん聖
若王子	十一面觀音	王子

本宮	阿彌陀如來
新宮	藥師如來
那智	飛瀧權現
瀧本	千手觀音

朝倉・井之口・岡野・松前「神話伝説辞典」より

本宮村	熊野坐神社	阿弥陀
新宮市	熊野速玉神社	薬師
那智山	熊野夫須美神社	十一面千手観音

宮家準「熊野修験」より

		名称 (『長秋記』)	神名 (『雑集抄』)	本地 (『長秋記』)	神像
三所権現	両所権現	西宮(結宮)	伊弉冉尊	千手観音	女形
		中宮(早玉明神)	伊弉諾尊	薬師如来	俗形
	証誠	丞相(家津王子)	国常立命	阿弥陀如来	法形
五所王子		若宮	(若女一王子) 天照大神	十一面観音	女形
(以下略)

「十一面千手観音」は、要するに千手観音のことであり、伊射奈美は早い時期に佐井寺ではなく山田の伊射奈岐神社に祀られたと考えられている。従って、佐井寺には、五衰殿女御とぴったり適合する神仏が、特に祀られているわけではないことになる。つまり、熊野に関係する信仰対象をこの地に安置するにあたって、なぜ（たとえば若王子ではなく）五衰殿なのか、という問いに対して、あまりすっきりした答は見出せない。

実地検分

二三十年ほど前まで御香水池があった小さな畑地から少し登った所、摂州嶋下郡佐井寺村山田寺境内之図が指し示しているのとほぼ同じ場所に、冒頭の写真のごとき石塔が現存している。攝津名所圖會の記述とも矛盾しない。しかし「三重石塔婆」という言葉から、通常の「三重の塔」を想像していると、見事に裏切られることになる。確かに三つの石が積み重ねられているのだが、その姿からは、造形的な意図を把握することが難しい。自然石ではもちろんなく、はっきりと面加工が認められる。しかし、既知の石造物（塔婆・灯篭・墓等）のいずれかが、風化・損壊した姿とも認めにくい。陰陽石の類と見ることができないわけではないが、それにしては加工が不自然である。もっと言えば、最初からこのように積まれていたものなのかどうかすら疑わしい、という印象を受ける。
とは言うものの、そこら辺にあった石を三つ重ねた代物では決してない。それは、石塔を構成する石材の特異性が証明している。この近辺にある中世・近世・近代の石造物は、御多聞に漏れずほとんどが堅牢な花崗岩で造られている。また、近世の墓石などは、字を刻む等の加工のしやすさから、砂岩が多用されている。いずれにせよ、千里丘陵は、岩石をあまり産しないので、これらの石材は、目的に応じて他所から調達されたものだ。それに対して、五衰殿石塔を構成する三つの石材だけは、凝灰岩質のものだ。同様の石材は、周辺の石造物には見あたらず、もちろん千里丘陵で産出することもない。
近畿での最も有力な凝灰岩質の石材産地は、二上山付近だった。「大坂ノ石」（御影石＝花崗岩を「大坂石」と呼ぶこともあるのでややこしい）あるいは「大坂の白石」等と呼ばれ、また近代まで「松香石」（成長大理石である松香石との混同、あるいは松香石粉を含む凝灰岩、あるいはピッチの水分が飛んで凝灰岩質に変化したものということらしい）とも呼ばれた。
石造遺物の材質上の大きな転換点は、平安時代から鎌倉時代にかけてであると言われている。当然例外はあるものの、古墳時代の石棺から、古代の石塔・石仏等には、彫刻加工の容易な凝灰岩が多用され、堅牢だが加工困難な花崗岩は、主に礎石や線刻に用いられるにとどまった。中世に入ると、宋人石工の渡来も含め、加工技術の進展により、堅固な花崗岩が石材の主流となり、崩壊しやすい凝灰岩質の石材は、稀にしか用いられなくなる。
この点に注目すると、佐井寺に現存する他の石造物（宝筐印塔・石仏・一石五輪塔・墓石等）が中世～近世のものであるのに対して、五衰殿石塔が平安以前の遺物である可能性が、高くなる。現在の塔姿が、本来の形状を想像しにくいものになっているため、様式面で時代を想定することができず、確度の高い推測はできないが、それだけにこの石材の特異性は重視しなければならないだろう。他方、石塔の年代を古く仮定することは、この塔の本来の由来を「五衰殿」から引き離す結果になる。「熊野の本地」物語が広く流布したのは、中世後期から近世初頭にかけてだろうし、物語の起源をあまり古くまで遡らせる理由・根拠も見当たらないからだ。

千里の熊野信仰

いわゆる「蟻の熊野詣」の参詣ルートからは、千里丘陵は外れている。都の皇族・貴族の参拝は、主に船で淀川を下り、摂津渡部で上陸後、すぐ南に向かって王子社の巡拝に入るので、千里丘陵に立ち寄る余地はない。
しかし、千里丘陵内には、熊野の代参地として信仰対象となった場所がある。現豊中市域に属し、佐井寺からは西北方に当たる、熊野田で、その信仰面の中心は八坂神社、その別当寺である宝殊寺、およびその奥の院とされる仏眼寺。宝殊寺の寺伝では、当地を熊野代としたのは、花山院に遡るとする。「熊野田」の地名からは、熊野への寄進田を想像するが、伝承ではそうではなく、「熊野代」の訛伝という。

山田から熊野田方面に向かう途中には、王子（現王子住宅）、九十九（現津雲台）といった、熊野九十九王子社を連想させる地名が残っている。また、上図からははみ出しているが、北方の藤白（現北千里藤白台）や、佐井寺北方の菩提（現佐竹台菩提池付近）から、紀伊路の藤白王子・菩提房王子を想起することも、できなくもない。近世において、熊野田北方の島熊山を中心とした千里丘陵西部に与えられていた「千里山」「九十九谷」の称まで熊野九十九王子に結びつけるのは、少し飛躍し過ぎかも知れないが。個々の地名の由来の詮索はともかくとしても、千里丘陵内に（おそらくは熊野田との関連で）熊野信仰の痕跡を認めることができる、とは言っていいだろう。
八坂神社の別当寺であった宝殊寺には、南北朝期の宝筐印塔が残されているが、中世後期から近世初頭にかけては衰微していたらしく、1712(正徳２)年に「再興」されている。中心がそんな有様だから、千里丘陵内に「九十九王子」があったとしても、中世末にはさほど実体が残っていなかったのだろう。上記の地名にしても、近世に入る時点で、既に由来がはっきりしなくなっていたと思われる。

仮説

結局のところ、五衰殿石塔の正体は何なのか。これまで見てきたことからは、この石塔が最初から「五衰殿女御」と結びつくような意図で建立された可能性は低いと言わねばならない。また、いくつかの資料が記す「禁裏御読経記念」云々も、典拠とおぼしき拾芥抄の記述自体が、当地での特定の仏事の存在を明確に示すに足るものとは言えないので、石塔の由来の参考とはしづらい。

現存する石塔と、それにまつわる伝承に、一通りの解釈を与えることはできないように思える。三つの時期に分けて、各々の解明を試みる必要があるのではないだろうか。
1. 熊野信仰期。中世半ばから焼亡まで。石塔を本地物語で再解釈しての信仰。千里での熊野信仰の痕跡の再発見。
2. 忘却期。近世佐井寺観音復興。名称に中世の伝承を残し、由来は不明となる。名所図会類への掲載と、新たな由来の付会。
別の可能性としては、
1. 建立から焼亡まで。石塔の名称「Ｘ」と由来は、寺に伝えられていた。
2. 荒廃期。石塔の名称「Ｘ」と由来を伝える寺僧が不在となり、名称「Ｘ」が村に残った農民間で訛伝して「ごすいでん」に近い形「Ｙ」に変化。
3. 近世佐井寺観音復興。村に伝承されていた名称「Ｙ」を、当時ポピュラーだった「五衰殿」と解釈して名所化。
どちらにしても、石塔の建立時期と、元の姿の推定が望まれる。このような姿に風化し得るような石造物は、一体何だろうか。あるいは、何かを足せば、順番を入れ替えれば、向きを変えれば、何かが見えてくるのだろうか。心当たりのある方は、是非御一報いただきたい。

'97/7/16～'97/7/21

参考文献

熊野フィールドミュージアム　和歌山大学
貴重文物展観　奈良絵本　九州大学附属図書館
熊野古道　ISTUMO氏
とよなか百景　豊中市政策推進部情報政策課・（財）千里国際情報事業財団
奈良県の地形と地質(2)　大和のいきもの on the Web　奈良県生物教育会編
二上山万葉の森ハイキングコ－ス　財団法人大阪みどりのトラスト協会
香芝市・天然記念物屯鶴峯　関西デジタル・アーカイブ　財団法人関西情報センター
地球の歴史を伝える　宇宙地球科学棟ロビー（阪大理学部）　池谷元伺氏
日本古典文学大系38　御伽草子　市古貞次校注　1958/7/5　岩波書店
日本歴史叢書48　日本歴史学会編　熊野修験　宮家準　1992/9/10　吉川弘文館
神話伝説辞典　朝倉治彦・井之口章次・岡野弘彦・松前健編　1963/4/20　東京堂出版
大和の石造美術　川勝政太郎　天理事報社
石造美術　川勝政太郎　一條書房

佐井寺山田寺