それ、上人、壮年の時より、諸所の深山幽谷の岩窟に御籠り給ふて、念仏修行、天下泰平・万民化楽のため御修行させられし事は、当年まで二十有余年の間、その難行筆紙に尽し難し。ある時、上人、岩窟に於て如来の霊夢を蒙り給ひしよりこのかた、夏行百日・冬行百ヶ日と相定めさせられ、春秋両度御出山あり、京都及び浪速諸所の寺院に於て、説法・勧戒あらせられける所に、有信の輩、

• 河内国八尾
  現大阪府八尾市。「河内国」は、淀川左岸の枚方から、生駒山系西麓、楠正成で有名な千早赤阪を含む、南北に広い範囲だが、現代では、八尾が「河内」の代表のようになっている。今東光・勝新太郎の名と共に知られた「八尾の朝吉親分」は言うまでもなく、河内弁・河内音頭のイメージも、概ね八尾・柏原あたりから出ている。
• 明意上人
  近世末期〜明治初頭にかけて大坂・京都を中心に活動した、融通念仏行者。備後福山、青木伝右衛門の長男、1814(文化11)〜1873(明治６)。本書が版行された1868年時点で五十代半ばということになる。若い頃から出家の意志があったが、親に許されず、父の死後の1841年、八尾清慶寺の中興楽山のもとで得度した。1846年の楽山の死後、清慶寺を継がず、大和稗田の常楽寺で詮海（禅・律・密をも兼修し、大念仏寺講主をも勤めた融通律の学僧）に師事しつつ無言行を行い、伊勢松阪来迎寺に籠り手灯行を修する等、行者として数年間を送った。1851年、清慶寺住持に迎えられるが、半年程でまた各地の山林での念仏修行に出てしまい、常に木綿の単衣姿で遍歴したという。1855年に清慶寺に帰住するが、京都大日山の岩窟で阿弥陀如来の夢告を得たのもこのころとされる。以降、楽山と同様に「八尾の上人」呼ばれ、大衆の帰依を集める。1863年以降、その人気を買われてか、四天王寺太子殿の再建勧進活動を依頼され、精力的に取り組む。1873(明治６)年秋には、聖霊殿の上棟まで漕ぎ着けるが、同じ秋の11月12日、完成を見ず死去。四天王寺から平野大念仏寺を経て八尾清慶寺に至る、異例の大葬列により数百人が見送ったという。
  （本項は、主に「中河内郡誌」「八尾市史」「日本仏教人名辞典」1992.1.20 法蔵館.による。また年表も参照のこと）
• 融通念仏
  融通念仏宗は、十三宗と呼ばれる代表的仏教諸宗派の中では、相対的にマイナーな存在（信徒数約13万人）に映る。実際、宗派として独立の体裁をとったのは、1688（元禄元）年と新しい。しかし、諸人の念仏の力が一体となって皆共に極楽往生することを信ずる融通念仏＝大念仏の思想は、平安後期の良忍以降、信仰史・文化史的に多くの影響を残している。それは、救済の宗教であると同時に共同体の宗教であり、普遍性の高いものだ。その普遍性の故に、かえって宗派勢力としては、他のアクの強い宗派に吸収され埋没するきらいがあったと言えるかも知れない。他方、郷村共同体の意識の強かった平野郷において、強固な信仰拠点を持っていたことも、納得できる。また、同宗の本尊は、近世には、宗派を超えた阿弥陀本尊信仰の対象にもなった。風変わりなケースとして、総本山大念仏寺の十一尊天得如来画像が、雨乞祈祷の本尊として絶大な人気を博し、大阪周辺の農民（多くは真宗門徒だったことだろう）が競って借出に来た、などというのもある。
• 岩窟
  諸処の山で修行したとあるが、明意上人が最も愛着を覚えていたのは、京都大日山のようだ。十六番および二十二番参照。
• 春秋両度御出山
  一般に、融通念仏宗の習慣的宗教活動として、春秋各々百日間「御回在」と称して本尊の巡回が行われる。明意上人が春秋に出山して説法するというのも、この春秋の御回在と起源を同じくする発想なのだろう。もっとも、彼が本山の百日間の御回在の行事を担当する僧であったとわけではない。
• 浪花
  ここでは摂津国大坂の範囲を指しているのだろう。京都と並べ挙げられているので、京阪の市中の諸寺院で布教活動をしていたことがわかる。大阪に関しては、本書が版行された1868年を含む数年間、明意上人は、太子堂再建のため、四天王寺東門付近での勧進活動をしていたと思われる。ちなみに、地元の八尾は「浪花」ではない。